旅ラン呑み鉄日記

こしの國から

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聖徳寺-2024/04/22

平日の本日は、残念ながらランも呑み鉄もありません、車での移動です。
今まで行ったことのないところ=《旅》ということで、ときどきこんなこともあります。
どこへ行ったかというと、『聖徳寺』、あの聖徳太子の聖徳です。
山の中ですが福井市です、福井市の最西端です、ほとんど大野市か池田町といってもいいくらいです、
マップで示すとここです。

⇓Googleマップのリンクでは、ここです。⇓

https://maps.app.goo.gl/bpM5f9Pbv31wKWGx6

山の中の、りっぱなお寺が、浄土真宗高田派のお寺、「聖徳寺」です。
聖徳太子ゆかりのお寺だそうです。
聖徳太子1400回忌の法要は4/21なのですが、
太子像の拝観は22日までやっているとのこと、
そして、顕智上人のゆかりのお寺ということで、出かけてみました。

 

福井新聞2024/4/22から引用
聖徳太子1400回忌 遺徳今も
 福井・聖徳寺250人法要
 立像、50年に一度 本開扉法会

 聖徳太子立像を安置する福井市味見河内町の聖徳寺で21日、聖徳太子(574~622年)の1400回忌法要が営まれた。鎌倉時代に作られた立像を本尊の厨子へ安置する50年に一度の本開扉法会(ほんかいひほうえ)があり、住民ら約250人が遺徳をしのんだ。

 真宗高田派の聖徳寺は、鎌倉幕府樹立に功績があった豪族、土屋三郎宗遠(むねとう)の子孫が、越前で高田派の顕智上人に帰依し建立。親鸞聖徳太子を生涯敬ったことにちなんで、聖徳寺と名がついたという。南北朝時代の戦火を避け、450~500年前に現在の味見河内町に移ったとされる。
 奈良県の法隆寺では2021年に1400回忌の法要が行われている。聖徳寺では毎年4月21日、22日に聖徳太子をしのぶ太子講を執り行っており(4/22が太子の命日ですー引用者註)、今年の太子講に合わせて1400回忌と本開扉法会を営んだ。
 この日は、普段中央に安置される阿弥陀如来像を左側に、太子立像を右側から中央に移して実施。高さ約130センチの太子立像を前に、土屋宗尭(むねたか)住職らが読経し、住民らが手を合わせ焼香した。最勝寺(同市脇三ケ町)の佐々木教幸住職による法話に続いて、餅まきが行われた。
 50年近く聖徳寺にお参りしているという同市神当部町(かんとべちょう)の山本信子さん(84)は「はじめて中央にいる太子様を見られてありがたい。家族みんなの健康をお祈りした」と話した。土屋住職は「多くの方に集まっていただいた。太子様のお心をいただいた寺として、太子様に関心を持っていただければうれしい」と述べた。
 同寺が所蔵する「白象唐子遊戯の屏風」と「宝刀小龍丸」の展示もあり、22日まで太子立像とともに拝観できる。
(斜体文字、強調文字は引用者によるものです)

 

本堂の中央、ご本尊の位置にいらしゃる聖徳太子立像です。

「聖徳寺」は、浄土真宗のお寺ですから、本尊は阿弥陀如来です。普段は中央に本尊の阿弥陀如来、右側に聖徳太子がいらっしゃるそうです。50年に一度の「本開扉法会」では、中央の位置を交代し、中央本尊の位置に聖徳太子さん、阿弥陀さんが中央の本尊の位置から左に移るということになります、50年に一度、一日、本尊が交代するということになります。


左に阿弥陀如来、真ん中に聖徳太子

「ふくい文化財かわらばん」(福井県教育庁生涯学習・文化財課が運営されています)さんの、ご本尊の移動の様子を伝える動画です、「X」のポスト。
https://t.co/jFcbOHgrHk
https://x.com/bunkazaifukui/status/1781281772560666710?t=xvjFndn13xUBWP2JZZQ48Q&s=03

 

「聖徳寺」の歴史の流れを、お寺でもらった資料+周辺資料で、まとめてみました。

  • 1256年(建長8年)10月、真佛・顕智・専信・下人(弥太郎・出家後随念)の四人が、下野高田(現・栃木県真岡市高田)より、京都の親鸞聖人を訪ねる。
  • 顕智上人、1256年・年末より3年、三河に留まり念仏を弘める(「三河念佛相承日記」)。(顕智上人が越前に来たとしたらこの時だろう)
  • (初期親鸞浄土教は、三河➡岐阜と越前をつなぐ美濃街道➡越前の大野➡越前の府中へと、伝わっていった。顕智上人は、親鸞聖人の孫弟子であり、聖人面授門弟の最後の一人です。)
  • 土屋三郎宗遠の子孫・義則が、越前で布教していた高田派の顕智上人に帰依して西妙と号し、府中の村国(現・武生駅の西、村国山のあたり)に一宇を創建。
  • 親鸞聖人が亡くなったのが、1262年11月。
    顕智上人が亡くなったのが、1310年7月。
    聖徳太子立像が造像されたのが、1329年。
  • 南北朝時代、日野川の戦い(1338年)で新田義貞、足利高経が戦った時期に、戦火を避けて、池田の松ケ谷(部子神社のあたり)に移る。
  • その後、味美谷(現在地の味見)に移る。

「聖徳寺」の山側には、峠越を越えて大野そして美濃街道へ向かう林道があります、クマが出そうですが、いつかたどってみたい林道です。その先には、はるか、三河に「妙源寺」「満性寺」、鈴鹿の三日市には顕智上人ゆかりの「如来寺」「太子寺」があります。さらに関東には、栃木県真岡の「高田専修寺・本寺」、さらには親鸞聖人ゆかりの「稲田・西念寺」があります。

今年の夏には、コロナの5年越しでやっと、「高田(顕智)まち」が行われる「専修寺」を訪問する予定です。
顕智上人、早々と三日市に行かないで、待っていてください。